Tony Curtis
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去年(2010)85歳で亡くなった名俳優に心から弔意を申し上げます。ハワイのマチスとも呼ばれ画家としても注目された、トニー・カーチス。管理人はハワイにオフィスがあった関係上、当時は毎月の様にハワイに出張していました。ひょんなことからトニー・カーチス氏との出会い、会食を重ねる内に、彼の本拠地ハリウッドでのパーティー、「スターと過ごす週末」に招待されました。生後0歳の娘を残して夫婦での参加にはためらいも有りましたがベビー・シッターにお願いして、週末2日間に渡るビバリーヒルズ・ヒルトンでのパーティーに参加しました。そこにはカーク・ダグラスを始め往年の大スター達が沢山集まりました。カーチス氏の娘で女優のジェイミー・リー・カーティスも紹介されました。彼もなかなかしたたかなもので、そのパーティーで彼の絵を売ろうと考えたのです。その後間もなく、彼から日本での展示会開催の打診が有り、管理人は彼とプロモーション契約をして、1989年5月横浜開港130周年、市制100周年事業で停泊中のクイーン・エリザベスU号(QE2)の船内で日本初のトニー・カーティス絵画展を実現させました。
★ 当時のQE2の記録映像と「スターと過ごす週末」を(YOU TUBE)で見ることが出来ます
Part
1 Part
2 Part
3 Part
4 「スターと過ごす週末」
エピソード 1
管理人はトニー・カーティス絵画展中に合間をぬってカーチス氏のプロモーションをしなければなりなせん。TV各局の出演準備、夜のディナー、その他、目の回る忙しさでした。再三、書いていますが、管理人はプロでは有りません。全て初めてのことで色々戸惑いました。強く記憶に残っていることが2つ有ります。一つは彼がイタリ料理が食べたいと云うので、東京青山の“サバティーニ”に案内する事になりました。ハイヤーを使えは良かったのですがなぜか会社の車を役員の運転で案内する事になりました。乗車時、ドアを閉める時に彼の指を挟んでしまいました。幸い大したことはなかったのですが、もしハイヤーを使用していれば、彼は黙ってはいなかったでしょう。彼は管理人に寛大に対処してくれました。
エピソード 2
トニー・カーティス絵画展開催中QE2に3泊したのですが、カーチス氏は二十歳代のM
嬢と同伴でした。噂どうりご盛んなこと!しかし,M
嬢はカーチス氏を放って、毎晩ディスコに入り浸り。さらに驚いたことにカーチス氏から、土産を買うお金を貸してくれと小切手を渡されました。日本円で50万程でサインがBernard Schwartz、その時は彼の本名を知らなかったので少々不安だったのですが、大スターが50万円位で詐欺は無いだろうと貸した記憶が有ります。記念に暫く保管していたのですが、為替変動が大きい時期だったのでハワイの銀行で換金しました。
エピソード 3
もう一つスターのお話、アンソニー・クインと云う性格俳優がいますがご存知ですか?映画「道」を二十歳ぐらいの時見て感激したものです。テーマソングの「ジェルソミーナ」も名曲です。2001年86歳で亡くなれたのでが映画「道」「炎の人ゴッホ」「欲望と云う名の電車」「アラビアのロレンス」など約50本近い映画に出演しています。彼もトニー・カーチス同様、俳優だけでなく、画家、作家の才能を発揮して色々作品を残しています。ご存知、マウイ島のラハイナは有名なリゾートとクジラのウォッチイングで日本の観光客にも人気が有ります。元州知事A氏からアンソニー・クインと会食があるので来ないかと誘いが有り、わざわざ(管理人の拠点はオアフでしたので)ラハイナまで出かけて行きました。指定されたレストランに着くとその周囲に若い女性が沢山集まっていました。何事かと思いながら中に入ると、元州知事A氏の家族をはじめ、アンソニー・クイン氏、等10数名のLady's
& Gentlemenがブラック・タイで着席していました。早速、元州知事A氏がアンソニー・クイン氏を紹介してくれ、アンソニー・クイン氏も自分のファミリーを紹介し始めました。奥さんと2人の息子、一人は映画俳優、もう一人は画家。会話が進む中で映画俳優の息子が当時、映画「プラトーン」出演している事を聞き、若い女性が沢山集っていることの意味が初めて理解出来ました。しかし、管理人は映画「プラトーン」を知りませんでしたので、次の話題になりました。どこで情報を得たか知りませんが、アンソニー・クイン氏が自分も日本で個展を開きたいので協力してくれとの申し出が有りました。しかし、トニー・カーティスの個展で大変苦労した経験から、簡単にはOKを出せませんでした。彼の作品はハワイの画廊で何点も見ていたのですが、それは大変素晴らしいものです。彫刻、油彩はピカソを彷彿させる作風で、彼の母がメキシコ人でその血が彼の作品にも表れている様な気がしました。最近知ったことですが「プラトーン」に出演した息子、フランチェスコ・クインは48歳の若さで亡くなったそうです。ご冥福をお祈りします。日本で管理人よるアンソニー・クイン氏の個展は実現しませんでしたので、管理人のもとには画像の資料が有りません。Webサイトには有と思いますが、是非見て頂きたい作家の一人です。
参考 Anthony
Quinn Artworks
★ 随時色々なエピソードを追加します。ご期待下さい。
サルバードール・ダリ ブロンズ
( private collection
)
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詳細は随時アートのページに加筆します
サルバードール・ダリ 油彩・キャンバス ( private collection
)
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この3枚の油彩はシュールレアリスムの巨匠ダリが二十歳前1920年に描いた作品。個人所蔵なのであまり紹介されたこがない作品。自画像、カダケス、鴨 特に自画像(52×45cm)の裏面にカダケス(45×52cm)が描かれている。湾の近くのポート・リガにはダリのアトリエがある。当時管理人はポート・リガを訪れ(1990年)ダリの友人で助手でもあったルイス・ロメロ老人の家に招待され、地元の美味しい赤ワインをご馳走になりながら、ダリとの昔話を聞いた思い出が有ります。彼はダリ研究家でも有名であり、ダリについての出版もあります。話の中でロメロ老人は日本の女優、岸恵子が夫のフランス人映画監督とよくポート・リガに来ていた話をしてくれました。ポート・リガをはじめ、フィゲラスにはダリ美術館、等ダリにまつわる多くの記念碑がありますが、最近は多くの日本人観光客が訪れ、沢山の記念写真をHPにUPしているのでそちらにお任せします。管理人はロメロ氏の案内でダリが好んでよく行った地元のレストラン3軒に行き、店主自慢のダリの作品を見せてもらう事が出来ました。それは作品と云うよりも、ダリが注文の品を待っている間にメニューや紙のランチョン・マット、コースターに描いたイラストでした。ユニコーンや躍動する馬など、さすがDaliのイラストと感銘!帰りにロメロ老人は管理人に彼の著書とダリのポスターをプレゼントしてくれ、大変感激!ロメロ氏を紹介してくれたフォルネス氏に感謝!なお、上記の3点写真はフォルネス氏(ダリ研究家)から提供されたものです。フォルネス氏とは前項にあるダリの彫刻44点の作品(バルセロナの作品群の双子)見るためにフロリダ、セント・ピータースブルグのダリ美術館にご一緒して頂いたダリ・コレクターで研究家でもあります。その時は家内と生まれて11か月の娘を連れての10日間の旅、色々苦労がありましたけれど、フォルネス氏には大変お世話になりました。

ルイス・ロメロ氏から贈られたダリのレゾネ
エピソード 1
管理人はこのHPのアート・ページでも書きましたが研究者でも、コレクターでもありませんが、ダリに関してはバルセロナで数人の専門家、コレクターとお会いする機会がありました。その時の話としてエピソードを書きます。
1.自転車で来てロールス・ロイスで帰った男
世界的にもダリの専門家として有名なロバート・デシャルネ(英語読み)と云うフランス人が居ます。ダリのレゾネ(図録)も数多く出版している写真家でもあります。管理人も数冊所有しています。ダリと出会うことによって莫大な財産を残した事で、バルセロナの専門家の間ではそのように云われているのでしょう。(やっかみ?)
2.贋作、模写、複製、について
素人の管理人が扱えるテーマではないのですが専門家からお教え頂いた知識の切り売りと思って読んで下されば幸いです。贋作(フェイク、Fake)はあたかも作家本人の作品であるかのごとく、販売、展示する詐欺的行為、中にはとても精巧に出来ていて一流美術館が見抜けないで購入し、後で問題になる事がしばしば起きています。模写と贋作の違いはサインなど模写した者の名前などが明記され模写で有ることが判る作品。絵画を勉強する者にとっては模写から始まると云われるくらい模写は大事な通過点なのだそうです。しかし、専門家を欺く模写が出来るまでにはかなりの勉強と努力が必要ではないかと思います。複製にも色々有るのですが、特に版画は浮世絵などに代表される木製版画、リトグラフ、エッチングなど色々な技法が有ります。版画は最初から沢山刷ることを目的としていますので複製とは云いません。しかし、問題なのは何枚刷ったかを示すエディション番号が有りますが、版元は最初に作者と合意の上、刷り枚数を予め決めます。しかし、信頼のおける版元でないと、原版を廃棄せず、作者の了解も得ず再度刷り増しをします。これは同じ版を使うので贋作ではないのですが、特に木版、エッチング等は刷る度にシャープさが無くなりクオリティーが少々落ちるのです。その微妙な違いを見極める目を養うことが求められます。また、アート・ページでも書きましたが油彩と違って sculpture(ブロンズ)は型を取れば多少シャープさが落ちますが何体でもコピー可能でコストとリスクが見合えばコピーを作る人間がいるのです。(贋金つくりより罪が軽い?)最初に作家が何体鋳造したかを確認し、その真正エディションかどうかをチェックする必要があります。当然、ブロンズも複製の度にシャープさが失われて行きます。いずれにせよ作品購入に関しては、石橋を叩いても渡らない覚悟で!ご存知だと思いますが、上野の西洋美術館の有名なロダンの“考える人”も世界中に何体有るか判りません。数十体ある中の1点で有ることは確かです。
3.なぜ、ダリの作品に贋作が多いのか?
人気作家の作品の需要と供給のことだけです。コストとリスクが見合えば贋作、複製を造るのです。そこにはモラルもヘチマも有りません。ただお金あるのみ。特にダリなどはアメリカ時代に金銭欲が強い妻“
ガラ ”が1万数千枚の白紙にサインをさせリトグラフの複製を造った話は有名な話であります。事件は後(1984年)に発覚するのですが、それにしても1万数千枚の白紙にサインするとは、ダリもダリですねー。何日掛ったと思います?その1枚が貴方の手元にも・・・?
最終的には所有者本人が贋作とも、複製とも、知らずに真作と信じて満足していればそれで良し!第三者がとやかく言うことまったく無し!下手に鑑定などして失望するよりは? 投機の目的で購入する人は別ですが?。
4.美術品の鑑定
最近、問題を起こし話題なっているTVタレントが司会をする美術鑑定番組が有りますが、所詮、お笑い番組として見れば(あまりのひどさで管理人は見ない)別にどうでもいいのでしょうが鑑定人と称する出演者の中には依頼品を指ではじいてコメントをウンヌンカンヌン。ひびの確認でもしているつもりでしょうかね。たとえ駄作でも依頼者にとっては大事な作品。もし割れたらどうする積りでしょうか?信じられない鑑定人の行為、それにいとも無責任な値付け、その値で買ってくれるのでしょか?買い取り保証のない値付けはまったく無意味で無責任なこと。TV番組制作者の虚構(ヤラセ)に乗せられる依頼者と視聴者こそいい迷惑!あれが日本の鑑定レベルとは思いたくありませんが・・・。残念な事に日本には西洋の美術品を国際的に通用する鑑定が出来る専門家が皆無に近いこと。管理人は海外で色々な美術品と出会う度に、素人は何を頼りに美術品を購入すれば良いかを専門家に問いました。歴史、伝統、習慣の違いか日本はヨーロッパとは大分事情が違うようです。鑑定に関して少々の知識を得ようと探っているうちに、幾つかの結論が出ました。1.日本には鑑定家、キュレター(学芸員)を育てる専門の公的教育機関がないこと。学芸員に関しては国家資格として形式的には有るのですが大学で何単位か取得すれば卒業と同時に資格(無試験)が取れる程度。まだ工事中ですがアートのページに載せている日本の甲冑は当時(1989年3月)管理人が東京のF美術館に数十点のコレクションとして納入した作品です。その時のエピソード。その時、担当した美術館の学芸員のお粗末さが今もはっきりと記憶に残っています。芸大出のまだ若い男性学芸員でした。経験不足で仕方のないことかもしれませんが納入前に管理人が図録を持って初めて訪問した時から高慢な態度で自分の経歴を誇らしげに述べ、図録を見て、状態が悪い、価格が高い、どうのこうのと、とにかく管理人の忍耐を超える発言のみ!管理人も忍耐が切れ、“現物も見ず、甲冑の専門家でもない貴方にどうこう言われる筋合いはない”とタンカを切ってしまいました。“こちらから購入をお願いしたのではなく、そちらが購入したいとの申し出があったのです”“破談にしましょう”と、たたみかけると学芸員は青い顔で弁明を始めました。すでに理事会で購入が決まっていたので多少強気も有りました。しかし、この誇り高き学芸員のお粗末さは続きます。納入時の検品の時、管理人は白手袋をして作品に直接触れないよう配慮して臨みました。(これは美術品を扱う時の常識)しかし、この学芸員は素手でいきなり甲冑櫃のふたを開け中の鎧を乱暴に持ち上げました。管理人は唖然として暫く言葉も出ませんでした。予備の手袋を学芸員に渡し、冷静に“この甲冑はお金を頂くまでは私どもの物です、慎重に検品して頂けないでしょうか”とそれから検品作業は数時間に及び大変苦労した思い出が有ります。近年は日本でも多くの美術館が各地に造れ、また、展覧会、美術オークション等も沢山開かれています。鑑定家、キュレターのニーズも増えています。ヨーロッパには世界的権威のあるオークション会社が幾つもあり有り、多くの有能な鑑定家、キュレターを抱え、また育て顧客のニーズに答えています。また、芸術の都と呼ばれるパリには鑑定家協会(1934年設立)と云う全国組織の準公的機関が存在しニーズに答えています。中でも特に管理人が感心したのは、鑑定家協会の鑑定家は非常に細かい分野別の専門の鑑定家が居り、よって鑑定された作品で真贋の問題が生じた場合は親子3代に渡っての保証を義務付けていること等、日本では考えられない制度が有ります。管理人は当時、無謀にもこのノウハウと組織を日本にも導入出来ないかとダメモトでパリ鑑定家協会にアプローチして日本の状況を説明してみたところ協会は乗り気になり、管理人はプロジェクトの日本側の推進役としていろいろな問題点の検討とスポンサー探しを重ねたのですが実現は出来ませんでした。問題点の一つにパリと東京間の地理的距離、パリの鑑定家が来日して鑑定をするには時間と費用が掛りすぎこと。数点まとめて鑑定する案も出ましたが所有者から預かり、保管する費用の問題など数々の問題をクリアー出来なかったのでした。当時はまだインターネットも初期、写真のデジタル技術も今日ほど簡単では有りませんでした。今日のようなIT技術駆使すれば初期鑑定はインターネットを通じてパリ-東京間でも簡単に行うことが出来るようになりました。しかし、現状は管理人の認識不足かも知れませんが、美術愛好家が満足出来るところまでは行っていないようです。
不思議な光景
前項で紹介のダリ彫刻44点の作品をフロリダに見に行く際、セント・ピータースブルグのダリ美術館見学をコーディネイトしてくれたバルセロナのダリ研究家、フォルネス氏が観光を兼ねて家族も一緒に行くと云うので、管理人も家内と、生後11ヶ月の娘を連れて行くことになりました。旅には大小さまざまなトラブルは付き物ですが、この10日間の旅も成田からシカゴ経由タンパの予定でしたが飛行機が遅れシカゴで乗り継ぎが出来ず足止め、シカゴで一泊するような”アナウンス”が有り、フォルネス氏との約束にはとても間に合いません。個人旅行なので管理人自身が交渉するしかありません。英会話に多少不安が有りましたが、早速カウンターに行き交渉。到着は24時を過ぎるが何とかデンバー経由なら手配で出来るとのこと。生後11ヶ月の娘を連れて不慣れな土地、ましては治安が悪いアメリカ、真夜中の行動に大変不安を感じましたが、ほかに選択肢が見つかりません。今考えると大変無謀な事だったと思います。タンパ空港に24時過ぎに着き、タクシーで目的地、タンパ・ヒルトン・ホテルへ。ホテルへ着くまで約一時間、緊張の連続でひあ汗びっしょり。無事到着、チェックイン、一安心すると、お腹が空いて来るものですね。ルーム・サービスで軽食でも摂ろうと思い電話すると、当時はヒルトンと云えどもローカルなのですねー。ホテル内はすでに全て閉店。仕方なく外部からのデリバリーで間に合わせました。翌日、フォルネス氏と共にダリ美術館へ。前置きが長くなりましたが、タイトルの”不思議な光景”は帰りに寄るマイアミのフォンテンブロー・マイアミ・ヒルトンのお話です。ホテルに向う道路沿いに巨大なギリシャ神殿風の建物が見えて来ました。門の内側にはこれから向うホテルの外観が見えてきました。一瞬、門の向こう側にホテルが有るのかと見間違えました。精巧で巨大なイラストが描かれているのです。どの様な発想で造られたかは知りませんが写真と動画(プライベート映像で恐縮ですが)ご覧頂ければ、より解りやすいと思います。建築物?屋外アート?屋外広告?アイディアのユニークさには驚かされました。(現在存在するか分かりませんが。)

動画不思議な光景 (You
tube)
コンコルド
コンコルド (Concorde)

ご存じ、コンコルドはイギリスとフランスが共同開発した超音速旅客機(SST)スーパー・ソニック・トランスポート。2003年に全機が退役し、現在は運行されていませんが,管理人は当時(1990年)、ニーヨークパリ間の便に乗る機会がありました。管理人にとってあまり良い思い出ではないのですが備忘録ですのでその時のエピソードを書くことにします。当時〈バブル後半)日本では色々な企業がステータスとして、ゴルフ場を所有、経営することが流行っていました。管理人もヨーロッパの知人からさまざまな情報が入ってきました。その中の一つ、ベルギーの名門ゴルフ場の売却の話です。日本の知人から自分の顧客を是非紹介したいので会わないかと連絡が有りました。事前に顧客についての情報を聞くと、金融会社の会長で個人的にも資産家で海外のゴルフ場を欲しがっているとのこと、アートにも造詣が深く、”ことによったらダリの作品も購入してもらえるかも”今後、管理人にとってもプラスではないかという事でした。しかし、その顧客の情報を詳しく調べて行くうちに、色々不安材料が出てきました。まず、その金融会社の商号はある大手の銀行名の後にXXXXと非常にまぎわらしい商号であること。金融会社とは俗に云うサラ金の事で、評判もあまりよくありませんでした。さらに、知人が言うには会長はラスベガスで一晩に1億も2億も使うという話でした。管理人はギャンブルに無縁で興味もありませんでしたのでその世界の話にはついていけませんでした。そうこうする内に知人が面会のアポイントを取ってしまい、躊躇していましたが、前項で記載したダリの肖像画をスペインの友人から預かっている都合上、ダメもとで会ってみるかと会長の事務所に知人と出向きました。すると会長とは前記したハワイ天台宗別院、開教20周年のパーティーで同席していた事が分かりました。奇遇とはいえ話がトントン進み、早速そのゴルフ場に案内してくれとのこと。ちょうど来週からラスベガスへ行くので、その後でゴルフ場を見に行こう。しかし、ラスベガス、ハワイ以外の海外には疎いので、ラスベガスまで迎いに来てくれと云うではありませんか。ベルギーへ行くのにラスベガスへ迎えに来いと云う何とも乱暴な話でした。ここで話を終わりにしておけば、コンコルドに乗る事もなかったでしょう。
この会長とのラスベガス〜ニューヨーク〜パリの旅は管理人が経験した海外旅行の中で最悪、苦難の旅になりました。
1、小型ジェット機でニューヨークへ
会長が待ち合わせに指定した空港はメインのマッカラン空港ではなくプライベイト・ジェット機が駐機する小さな空港でした。そこにはヒルトン・ホテル専用の6人乗り小型ジェット機が待機していました。会長と会長の連れ2人、管理人、パイロット2名、計6名が搭乗し、ニューヨークまで出発!それは、それは狭い機内で長時間の飛行、パイロットが用意した飲み物、サンドイッチを摂りながら、会長の話を聞くと、ヒルトンのカジノがジェット機、ホテル費用を全て負担し、すべてフリーだそうです。それはそうでしょう、カジノで一晩に1億、2億も使う客には色々なサービスすると聞いていました。安全性、狭い空間、飛行時間もかかり、ジャンボ・ジェット機のファースト・クラスのほうがよほど快適で、安全性が高いと管理人は思うのですが、金持ちの中にはケチなところが多々あると聞きます。ニューヨーク空港にはヒルトン差し回しのリムジンが小型ジェット機に横付され、そのままヒルトン・ホテル・ニューヨークへ直行、チェックインも無しでロイヤル・スイートへそのまま案内され、正にいたれつくさり!人格、教養、マナーなどは一切おかまえ無し、金の力は何と恐ろしいこと!ここから行く先々で色々なトラブルが旅の最後まで続きます。まづ、最初に会長の通訳兼代理人?(アジア系)が部屋にアタッシュケースを持って入って来ました。会長の指示でアタッシュケースをホテル1階のクローク預けに行来ました。暫くして戻ってきて会長と何やら?会長は管理人にアタッシュケースを差出し、君が預けに行ってくれと云うではないですか。理由を聞くとクロークではアタッシュケースが入る金庫が無いので預けることが出来ないとの事で、君が行って交渉してくれとのこと。中身を聞いてびっくり仰天!何とドル紙幣で100万ドル。管理人も目の当りに100万ドルもの現金を見たことは有りませでした。さながらアクション映画でも見ている気分でした。管理人のつたない英語で交渉できるか不安でしたが何とか書類を書き特別に預けることが出来ました。
しかし、ここから苦難の旅が始まります。トラブルが・・・。
2、ブロードウエー ミュージカル (レ・ミゼラブル)
3、コンコルドでニューヨーク〜パリ
4、パリ ホテル・ジョルジュ・サンク
制作中
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